サンクローバー vol.47|ひととせコラム|小野寺燃料株式会社

札幌の住まいと暮らしの情報誌「Sun Clover」

イラストレーション:山本重也 http://www.shige-web.com/

ひととせコラム番外編
野田と江戸のかかわり
日本の醤油の歴史と発展

 今号は番外編として、「ひととせコラム」の著者・大森清司氏が「東京日本橋西ロータリークラブ」の卓話(1999 年)で語った内容を編集・抜粋してお届けします。

 文献等によると、醤油は鎌倉時代に中国から伝えられた。その前は東南アジアなどに原点があったようだが、いずれにしても中国から伝わっている。司馬遼太郎『この国のかたち』の第六巻に「醤油の話」がある。覚心という信州出身の禅宗のお坊さんが中国から帰り、和歌山県の湯浅で径山寺味噌をつくった。すると上に液が溜まり、それを取り出したものが醤油の原型となって、16世紀初めに千葉県野田に伝えられたそうだ。

 そして、飯田市郎兵衛家が醤油の醸造を開始した。飯田家は400年近く、今なお連綿と続いており、当主はキッコーマンに勤め、私も一緒に仕事をしていた。今のキッコーマンにつらなる茂木・高梨家が醤油を始めたのは、それから100年くらい後である。当時は農閑期の副業的なもので、産業になったのは江戸幕府が開設されて世界一の百万都市になったことが背景にあるようだ。

 江戸初期は上方文化が中心であり、灘や伏見の酒は“下り酒”といわれた。醤油も最初は関西でつくられたものが江戸まで船で運ばれてきた。今でも関西は色の薄い“薄口醤油”が主流で、江戸初期はそのタイプが使われていた。茂木・高梨家が始めた当時は“地回り物”といって、どちらかというと文化水準の低い地区でつくられていた。地元産は地回り物であり、“下り醤油”でないというわけである。「下らない」という言葉はそこからきているともいわれるが、本当かどうかはわからない。

 現在の江戸川は江戸幕府が何年もかけて移動してつくったもので、その結果、野田と江戸が近くなった。今でいえばハイウェイがつながったようなもので、野田から行徳まで6〜7時間で運べるようになった。朝、野田を出れば夕方には江戸に着く。新川や霊岸島のあたりに着いたため、今でもあのあたりに醤油の問屋が集中している。

 醤油の原料は大豆と小麦と食塩と水だが、常陸国(茨城県)や上州(群馬県)でとれた大豆が、河川改修により比較的容易に入手できるようになっていた。さらに食塩については、有名な赤穂(兵庫県)の塩などが、醤油を運んだ帰りの便を利用し、野田まで安く輸送できた。現在でいえば、コスト競争力がついたのである。

 一方、各業者が切磋琢磨して品質の改良に努め、100年くらいのうちに上方からの醤油はほとんどなくなり、野田や銚子の醤油が主流になっていった。江戸はパリなどより大きい百万都市で、独身男性が圧倒的に多かった。その結果、外食産業、屋台が発達した。蕎麦切り、鰻の蒲焼き、寿司、天麩羅、柳川鍋、深川飯、佃煮などはすべてファストフードであり、独身男性の需要で出てきたものだ。これらはいずれも関東風の濃口醤油でなければ成立しない料理で、醤油産業は江戸前料理の形成において相当力になったのではないだろうか。

 これらは、決して地の利だけではなく、醤油醸造に関わってきた人々が技術改良やマーケティング努力に切磋琢磨してきた結果である。これからも国内外により多くのシェアを広めるべく、日々精進していきたい。

大森清司(おおもり・きよし)

1937年8月千葉県野田市生まれ。1960年中央大学法学部卒業。1960年野田醤油株式会社(現キッコーマン)入社。営業企画部長、デルモンテ事業部長などを経て、1994年取締役就任。2002年代表取締役専務として全国の営業を統括。2010年退職。この間、日本マーケティング協会マスターコースマイスター、全国トマト加工品業公正取引協議会委員長、学校法人中央大学理事などを歴任。著書に『私のビジネス春秋』『春秋余情』『春秋高く、しなやかに』『ひととせを紡いで』(諏訪書房)。趣味は読書、詩吟。

 ひととせコラム 過去の記事一覧へ
 最新号トップページへ