サンクローバー vol.43|ひととせコラム|小野寺燃料株式会社

札幌の住まいと暮らしの情報誌「Sun Clover」

イラストレーション:山本重也 http://www.shige-web.com/

ひととせコラム 渋沢栄一のこと

 秋になると、空気が澄んで空は高くなる。北東アジアでは大陸の移動性高気圧の影響で水蒸気が少なくなり、空の青さが際立ってくる。今年のNHKの大河ドラマ『青天を衝け』は、明治・大正・昭和の大実業家であった渋沢栄一が主人公だ。NHK千葉放送局の番組リーフレットやネットでも、野田醤油(キッコーマンの旧社名)や公益財団の興風会のことが紹介されている。

 筆者が勤めた会社ともかなり“つながり”が深く、若い頃から関心をもってきた人物であった。何しろ、入社試験の最終面接で、「渋沢栄一について述べなさい」と言われたとき、法学部の学生だった筆者は、まともに答えられなかった。そこで渋沢翁については、折に触れて調べたり、著書を読んだりしてきた。もちろん『論語と算盤』は現役時代に数回読んできた。

 今の会社は、野田周辺の醤油醸造家8家が企業合同して、大正6年に発足したが、その一家に渋沢の縁者が嫁いでいた。そのため、会社の合同や資本の充実などについても助言があったようだ。会社には、渋沢が“揮ごう”した色紙や額が残されており、今も役員会議室などに掲げられている。

 昭和の初めに長期間の労働争議があったときは、渋沢がつくった「協調会」が斡旋をしてくれ、何とか解決することができた。

 渋沢は、隣県の埼玉県深谷市郊外の出身で、生家は大きい農家であった。農家といっても染料の原料となる「藍玉」の商人であった。渋沢は、徳川昭武を首席とする使節団の随員として、会計・庶務を担当し、パリの万国博覧会に行った。この時、彼はヨーロッパ1年半滞在し、そのビジネスの実情を知り、日本の進むべき方向を覚(さと)った。筆者の大学の友人が深谷におり、渋沢を顕彰する運動にながらく参加していた。彼の案内で、生家(中の家)を訪問したこともある。これまでに放送された大河ドラマは、いわば「青春篇」で、いよいよこれからが彼の本領発揮である。

 彼は若い頃、尊王攘夷の志士であった。その後、縁あって一橋家に仕えた。生涯に500社以上の会社の設立などにかかわり、ビジネス引退後は、多くの社会事業や教育関係を支援。民間経済や社会福祉を通して日本を豊かにしようと考えた。私心無く広く社会のために尽くし、岩崎弥太郎のように財閥をつくることもしなかった。

 渋沢は、第一銀行をはじめ、保険、鉄道、ガス、船舶、セメント、繊維、製糖、ビールなど、実に多くの分野で実績を残している。「日本の資本主義の父」といわれるゆえんである。もちろん北海道とのつながりもある。北海道炭鉱汽船、北海道鉄道、十勝開墾などの設立にかかわった。

 彼は、必ずしも“聖人君子”ではなかった。実業家として立派な邸宅を東京の飛鳥山に持っていたが、これは主に国内外の来客を迎えるためだった。趣味は仕事が忙しくあまりなかったが、書を書くのが好きで、漢詩も残している。子だくさんで、妻・千代との間に二男三女、後妻・兼子との間に五男一女に恵まれた。テレビでは放送されないとは思うが、明治の人らしく、いわゆる「お妾さん」もちゃんといた。

 渋沢栄一は、明治という時代がつくった人であり、まさに秋空のような“青天”をつきすすんだ人であった。

大森清司(おおもり・きよし)

1937年8月千葉県野田市生まれ。1960年中央大学法学部卒業。1960年野田醤油株式会社(現キッコーマン)入社。営業企画部長、デルモンテ事業部長などを経て、1994年取締役就任。2002年代表取締役専務として全国の営業を統括。2010年退職。この間、日本マーケティング協会マスターコースマイスター、全国トマト加工品業公正取引協議会委員長、学校法人中央大学理事などを歴任。著書に『私のビジネス春秋』『春秋余情』『春秋高く、しなやかに』『ひととせを紡いで』(諏訪書房)。趣味は読書、詩吟。

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