ひととせコラム【39】   札幌の住まいと暮らしの情報誌「Sun Clover」vol.39

「ウポポイ」によせて

北海道の千歳空港から近い白老(しらおい)町に、「民族共生象徴空間」(愛称はウポポイ)という施設が、今年7月から公開された。「ウポポイ」は、アイヌ語で「みんなで歌う」という意味だという。アイヌ文化を伝える施設は道内にいくつかあるが、国立としては初めてのものである。

 アイヌ文化は、採集漁労が主体で、言語、衣食住、祭り、踊りなど、本州の古代文化とは大きく異なっている。太古の日本人の系統は、朝鮮半島経由、台湾経由、サハリン(樺太)経由の3つがあるらしい。南方の稲作文化は台湾や朝鮮経由の人々によってわが本州にもたらされ、のちに弥生文化を生んだ。北海道のアイヌという先住民族は、大陸の沿海州やサハリン経由で来たらしく、本州とは違った文化を生んだ。

 司馬遼太郎の「オホーツク街道」によれば、北海道の一番古い文化としてオホーツク文化があり、数千年前からである。司馬さんのこの本は、北海道の考古学、人類学、北東アジア史の入門書になる本である。古来、北海道は世界でも最も食料に恵まれた地域であった。海にはニシンやホタテなどが豊かにいた。夏には木の実が取れ、熊や鹿など動物もおり、秋には食べきれないほどの鮭や鱒が川に上ってきた。夏季の気温が低いから、稲作はできなかったが、むしろコメがなくとも豊かな暮らしができた。

 オホーツク文化に続いて、縄文文化、続縄文文化、擦文文化などの土器文化が発展した。アイヌ文化が「和人」に認識されるようになったのは、比較的新しく13世紀ごろ(本州日本の鎌倉時代)からだという。本州の東北地方との交流もあったといわれる。

 オホーツク遺跡やアイヌのコタン(集落)には、多くの貝塚がある。アイヌの人々にとって、貝塚は単なるゴミ捨て場ではなかった。自然やカムイ(神)に感謝する場所だったとされる。

イラストレーション:山本重也
http://www.shige-web.com/

 私の住む千葉県にも貝塚が多い。今の東京湾は、内陸深くにまで入り込んでいたから、野田市内にも、野田貝塚(清水公園内)や山崎貝塚など、多くの貝塚がある。貝殻だけでなく、石器や土器なども出土している。特に山崎貝塚は、縄文時代後期の馬蹄形貝塚で、国指定の史跡である。筆者が以前に住んだ家は山崎貝塚の近くにあり、秋空のもとに広がる貝塚周辺を散歩すると、砕けた貝殻がキラキラと光って見えた。貝塚は考古学、人類学の宝庫である。野田市の出身で考古学者となった方に下津谷達男氏(元国学院大教授)がおり、中学校の同級生の石毛直道君は考古学を志したあと文化人類学者となり、元国立民族学博物館長になった。北海道の考古学の発展には、在野の人々が大きな貢献をしている。

 網走の「モヨロ貝塚」は、米村喜男衛(きおえ)さんという理髪師が発見した。常呂町の常呂(ところ)遺跡は、大西信武さんという土木監督に よって発見された。アイヌ研究の権威である金田一京助博士は、米村さんと会ったとき、次の歌を詠んでいる。「於不津(おほつく)の もよろのうらの 夕凪(ゆうなぎ)に いにしよ志のび 君と立つかな」。このように、北海道の古代には、私たちの想像をかきたてるロマンの香りがある。

大森清司(おおもりきよし)|1937年8月千葉県野田市生まれ。1960年中央大学法学部卒業。1960年野田醤油株式会社(現キッコーマン)入社。営業企画部長、デルモンテ事業部長などを経て、1994年取締役就任。2002年代表取締役専務として全国の営業を統括。2010年退職。この間、日本マーケティング協会マスターコースマイスター、全国トマト加工品業公正取引協議会委員長、学校法人中央大学理事などを歴任。著書に『私のビジネス春秋』『春秋余情』『春秋高く、しなやかに』『ひととせを紡いで』(諏訪書房)。趣味は読書、詩吟。

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