敗戦国民の家庭料理

 わが家の正月料理といえば羊のシャブシャブと餃子だった。といっても、戦前、しかも旧・満州(現・中国東北地方)の話である。

 私の父は、文化人類学者で、北東アジアのシャーマニズムの調査・研究のため、満蒙地方を探訪して歩き回った。満州でモンゴル人の居住地、ソ満国境近くの興安街(現・中国内モンゴル自治区ウラシホト市)に住んでいた。

 周知のようにモンゴル人の主食は羊。羊といっても西洋料理に出てくるラム(一歳未満の仔羊)ではなく、マトン(一歳以上の成羊)である。モンゴル人は朝、昼、晩、塩茹でにしてそのまま食べる。いつもはスープ代わりにスーティ茶という羊乳のミルクティーを飲む。

 手の込んだ羊の肉の料理には涮羊肉(シュマンヤンロウ)があるが、これはいわゆるシャブシャブ。日本の牛肉のシャブシャブは涮羊肉にヒントを得た羊頭狗肉ならぬ羊頭牛肉の日本料理だ。もともと涮羊肉はジンギスハーンが遠征して連れ帰った回教徒の捕虜が食していたもの。そこからモンゴルや中国の回教徒料理として一般化していった。

 涮羊肉は、マトンのほかに、中国キャベツ、春雨、豆腐、椎茸、ネギ、ときには麺類も入れ、グラグラ煮立った湯で一洗いして、芝麻醤(ゴマ味噌)、酢、醤油、酒、胡椒などで作ったタレに浸して、ペロリと食べる。そして白酒(焼酎)を「キューッ」とあおる。

 一方、正月料理としての餃子は典型的な満州料理だ。周知のように満州は、奉天府(藩陽)を都に満州族の初代皇帝ヌルハチが建国し、故宮を築いた清王朝の故地。したがって、正月料理も清朝の宮廷料理が主流だった。もっとも一般庶民にとってはツバメの巣、フカヒレ、熊の掌など山海の珍味を集めた豪華な宮廷料理「満漢全席」などは高嶺の花だった。

 しかし、満州族伝統の餃子は王族も庶民も好んで食べた民族料理。作り方はいたって簡単で、最低限、豚の挽肉と野菜を刻んだ具さえあればよい。小麦粉を水で練った円形の薄皮にその具を半月状に包めば出来上がり。それを蒸して、酢醤油にラー油をたらしたタレで食べるのが正統グルマンだ。

 満州人は春節には毎日のように蒸餃子を食べるが、一家の主人は、ディナーの折、小さな金貨や玉をいくつかの餃子にこっそり忍ばせておく。食べている最中に、ガリッと金貨を噛んだ者は、皆に「おめでとう」と、もてはやされる。宝くじ的趣向のお年玉なのである。

 春節が過ぎると、たくさん作った餃子が余ってしまう。氷点下十度〜二十度の“外の冷蔵庫”に貯蔵していた餃子に熱を通すために鉄板で焼き直して食べた習慣が、いつのまにか市井の貧しい庶民の社会に焼餃子として定着した。実は、この焼餃子なる変則メニューを、敗戦国民・日本人がいつの間にか生活の知恵として習い覚えてしまった。

 卸売りの中華料理店からわけてもらった餃子を大道の屋台で焼いて売る。これこそ文字通りお美味しい商売。実は私の母もそのアルバイトに精を出した一人だった。

 一九四五年八月九日、ソ満国境を超えてソ連戦車軍団が進攻してきた。わが家は翌十日夕方、最後の貨物列車で脱出し、三日後、朝鮮との国境の街、南満州の安東に到着した。しかし、国境を渡れず、同地で約一年半の難民生活を余儀なくされた。父は古本屋の雇われ番頭の職を見つけ、その間、母は闇市の大道屋台で焼餃子を売り、帰国の日まで生計を支えたのであった。

 今日の日本では蒸餃子や水餃子より焼餃子が主流で好まれ、ラーメン、餃子は前述のシャブシャブ同様に、“日本料理”の定番となっている。だが、そのルーツは終戦直後の満州における敗戦国民・日本人の生活にあったのである。栃木県宇都宮市は、焼餃子のメッカといわれ売上げ日本一だったが、最近、静岡県浜松市が首位の座を奪取した!など話題も豊富。

 満蒙といえば、ジンギスカン鍋も純粋のオリジナルなモンゴル料理でもなければ、満州料理でもない。北海道十勝地方で戦後の食糧難の時代に農家が飼っていた羊や山羊などを食したのがきっかけという。

藤原 作弥


<プロフィール>
エッセイスト、ノンフィクション作家。元日本銀行副総裁。
 — 著書 —
聖母病院の友人たち―肝炎患者の学んだこと
満州、少国民の戦記(上) ノンフィクション (現代教養文庫ライブラリー)
満州、少国民の戦記(下) ノンフィクション (現代教養文庫ライブラリー)
死を看取るこころ
人間(ひと)のいる風景
ビジネス書を肴にして
素顔の日銀総裁たち―カラムコラム
本にからむコラム
満洲の風
風評私評
攻守ところを変えて―日銀副総裁になった経済記者
わが放浪―満州から本石町まで
素顔の日銀副総裁日記
李香蘭 私の半生 (新潮文庫)

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