昭和41年のおやつ

 渥美清の「泣いてたまるか」DVDを流しながら仕事をしている。昭和41年のドラマ。

 昭和40年代の前半までは、まだ戦後が残っていたと言われる。貧しい庶民がいたし、中流家庭は明確に中流で、家のつくりも生活風景も、庶民とは明確に異なった。中流であれば、家にお手伝いさんがいた時代だ。

 その頃の我が中川家(漫才師ではない)は、完璧な庶民だった。風呂のない、長屋のような社宅に住んでいた。

 小学校に上がる前の頃、大好きだったおやつは、母が作るあられである。ご飯のおひつに飯粒が残る。それを水につけておいて丁寧にざるにあける。そして、その飯粒を干しておいて、ほどよい乾き加減で砂糖で煎る。「ご飯粒を残さない」という躾けだ。

 小学校に上がると、母は勤めに出た。夫婦共働きで、高度成長の終焉期に中川家はガンガン稼いだ。父母は毎日残業だったから、祖父母と同居するまでは小学生の僕の平日の夕飯は出前だった。寿司、肉野菜炒め、親子丼、カツカレー、寿司のローテーション。週2回寿司の出前が来る我が家は、周囲から奇異に見られていた。

 稼ぎまくった父母は、それでステレオを買い、クルマを買い(2台!)、頻繁に外食をし、毎晩飲みに出かけ、息子を私立の中学に入れた。無駄遣いばかりで、結局家は建たなかったが、意識は中流だった。母は酔うといつも、「お父さんは結婚するときに、いつか女中を雇う暮らしにしてやると言ったのに」と父にからんだが、既に時代は、女中という職業が消滅していた。

 中川家が中流になり、母はあられのおやつを作らなくなった。学生時代、一人暮らしのアパートで何度が作ってみたのだが、冬は飯粒がパリパリになりすぎ、夏は干しているうちにかびてしまい、上手にできなかった。母も死んでしまったから、もう作り方がわからない。

中川順一(小野寺燃料非常勤取締役)

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